わたしの考えてること

日々の生活を通して気づいたことを書いています

「怒る」って「愛」だよなぁ

昨日、試しに怒ってみた話を書きましたが、その後その気持ちをぼんやりと反芻しながら一日過ごしているうちに、「怒る」って「愛」だよなって急に思ったので、そのお話を。

 

「怒った」時の自分のことを振り返ったんです。

すごくモヤモヤ・イライラして、腑が煮えくり返り、頭の中はそのことしか考えてないし、その他の生活を全部どこかに放置して、「怒っている」きっかけの事象と、相手の気に食わないところとをずっと延々と見つめ続けてる。。。

要は、何よりも最優先かつ全力で、その怒りたい事象と相手のことを考え続けているわけです。それって、すごいその相手のこと大好きじゃん(?)、、、って。

 

普段、そこまで人のことを考えたりすることって、正直あんまりないです。何かきっかけがあって、その人のことをちょっと考えてってことはありますが、四六時中相手のことを考えるなんて、片思い極まりし時と怒ってる時くらいじゃないかなって。

 

それに、そもそも「怒る」って何よ?っていうのもあります。

相手が自分の思ったように動いてくれなかったから、怒る。

端的にいうと、そういうことかと思うんですが、それはつまりひっくり返すと「相手はこうしてくれると信じていたのに、そうしてくれなかった。」→「期待を裏切られた。」ということなのかなと思うんです。意外にも、怒りの前には相手への期待や信頼があったみたいなのです。

 

例えば、小さな子供が水の入ったバケツをひっくり返した、とします。

ひっくり返すだろうな・・・と思っていたら、実際にひっくり返した時に「ああ、やっぱり」と後悔の念の方が先に立つと思うんです。

これが「あらかじめ気をつけてねと注意しておいたから、大丈夫だ」という気持ちでいたら、実際にやられた時に「だから言ったでしょ!」と怒ってしまう。大丈夫だと期待や信頼をしていたから。

 

例えば、通りすがりの人が落としたハンカチを拾って渡したら突然暴言を吐いてきた、とします。

多分、すごいイライラしたりモヤモヤしたりします。それは、この人が暴言を吐くような人には見えなかったから。自分がハンカチを拾ってあげたら、お礼を言うだろうことを期待していたし信じてもいたから。

でも、この通りすがりの人が、会う人全てに暴言を吐いていて、自分の近くに来た時にも同じように暴言を吐いたら、「ああ、やっぱり言ってきたな。気分悪いな。」くらいで終わります。それは、この人が暴言を吐く人だと知っていて、最初から期待も信頼もしてなかったから。

あるいは、「なんで怒られないといけないのさ・・・」なんて落ち込むこともあると思います(私は恐らくこのタイプ)。この場合は、お礼を言われることは期待していないけど、かといって攻撃されることはないと信頼はしていたという感じでしょうか。

 

だから、「怒る」という感情が起きたとしたら、その相手に対してまず「期待と信頼の心を持っていた」ということだなと思ったんです。そして、その怒りが持続するということは・・・?

 

そう思うと、「怒る」って「愛」だなぁって思ってしまった、そんな1日でした。

 

 

↓昨日のお話はこちらです。よかったら。

a8diary.hatenablog.com

 

ためしに怒ってみたら、「許す」の本質が垣間見えた気がした

普段あんまり「怒り」の感情を出さない方なのですが、それは怒っていないというよりも我慢に慣れてしまったという方が正しくて、それがすごくストレスとして溜まってしまうタイプです。

そんなことを長年繰り返していたせいか、去年の健康診断で消化器系の問題をいくつか指摘されてしまいまして、今年はなるべくストレスを溜めないようにしたいな、とか思っています。

 

ただ、怒るの慣れてないんです。相手に嫌なことを言われたあと、確かにモヤモヤはするんです。で、それを自分の中でそれを反芻してるうちに怒りに変わり、でも今更言っても仕方ないしなと思って飲み込む。そんなことを繰り返しています。そりゃ体調悪くなりますよね。

 

そんな中、「嫌なことがあったら、そこから怒りの感情だけ取り出してそこだけ感じ取ると、スッキリするよ。怒りなんてパワー使うから持続できないし。」みたいなことを言ってる動画にたまたま出会いまして。なるほどやってみよう、と。

 

まず、紙とペンを準備しました。

そこに、怒っていることについて思ってることをひたすら書きます。話し言葉で、頭に思い浮かんていることを全部書きます。脱線したら、「それは置いといて、元に戻ると・・・」なんて書きながら、ひたすら書きます。

すると、自分の中の怒りが増幅していきます。身体中からメラメラと怒りの炎が燃えたぎってきます。そんな中、まだひたすら書きます。

怒り極まりし時が訪れます。自分でもこんなに怒っていたとは知らなかった、っていうくらい怒ります。で、ふっとそれが収まります。

そうなんです。怒りってものすごくパワー使うんです。疲れるんです。だから続けるには体力がいるんです。

 

顔を上げると、自分が今まで書いてきた文字が目に入ります。へーこんなに怒ってたんだ。意外なくらい冷静にこの事象を振り返ることができる自分がいます。ここまできたら、しめたものです。

事象を冷静に振り返れるようになったら、まず「どこまでが自分の問題で、どこからが相手の問題か」を線引きします。そして、自分の問題は自分で解決、相手の問題は相手にお返しする。だって、相手の問題を自分が解決するなんてそもそもできないし、それができると思うのはちょっとおこがましいかなと思うんです。手元に残るのは、自分のための課題のみ。この課題をクリアするのか、一旦保留にするのかを決めたらいい。

 

そこまでくると、この問題に対する自分なりの整理がつくみたいで、ふっとこの問題から自分の心が解放されたような気がしてきます。相手のことは相手の問題だしと思えたことで、相手のこともどうでも良くなります。

 

ああ、これが「許す」ってやつなのかな、と思いました。

 

「許す」って、嫌なことをする相手を肯定して受け入れるとか、そういうことなのかと思っていましたが、そうではないみたいです。

自分の目の前に何かが起きた時、色んな感情が湧き起こります。そこにネガティブなものが含まれると、ずっと自分の心の中にそれが居座って、ずっと気になって、わざわざその負の感情を反芻したりして、いつまでもそれを手放せずに過ごします。それを整理して、必要なところだけ受け取って、いらない部分を解放することを「許す」って呼ぶのかな、と。

 

そう考えると、「許す」って、自分のためのものなのですね。

 

 

 

推し活とは修行である

3年前くらいに人生初の「推し」ができまして、ゆるく推し活を楽しんでいます。

多忙を極めて自分を見失っていた私に「感情」を思い出させてくれたのは、推しでした。推しの作品や言葉に触れているうちに、「心が動く」感覚を思い出せたのです。

だから、頑張って活動を続けてくれることに感謝したいし、推しが好きなことをのびのびと楽しんで活動できるように、の気持ちで推し活をするようになりました。

 

ただ、最近思うのは、推しとの付き合い方って修行みたいだなってことです。

 

ふた昔前くらいは、人前に出る人は手が届かないのが当然で、思いは一方通行だし、個人を認知してもらうなんてことはまずなかったと思います。

ところが、今は、ネットを通じて誰でも簡単に活動者になれるようになりました。多数に埋もれないよう、彼らは手を尽くして常に新しいコンテンツを提供し、ファンと何度も交流を重ね、少しでも自分を「特別」にしてもらえるように努力を重ねていきます。

 

ファンの視点に立つと、この人いいなとちょっと検索をかけると、たくさんのコンテンツがヒットし、さらに日々新しいコンテンツを与えてくれ、配信ではたくさん耳障りのいい言葉を囁いてくれるし、対面イベントなんてものがあったら直接話したり握手したり写真撮ったりできちゃうわけです。毎日の生活に浸透し、話しかけると返事が返ってくることもある推し。そのうち「その他大勢のファンではなく、個人として認知されたい」とか「自分のことを特別扱いしてほしい」なんて気持ちが生まれるのも、わかります。

 

が、ここから先のところで自分が試されます。

 

例えば、自分よりも推しと仲良さそうに話している人がいて、それをどう見るか。「いいな、羨ましいな」と思った時、向かう方向がいくつかあると思うんです。

1つ目は、「楽しそうだなぁ」と“自分は自分““他人は他人“で割り切る方向。

2つ目は、自分も仲良くなりたいから「もっとアピール頑張ろう」という自分を高める方向。

3つ目は、自分には上手にできないから「自分より目立つ人を叩く」という相手を下げる方向。

ここで、どれを選択できるかは、その人の心の余裕だったりなのかなって。

 

「羨ましい」と思ってしまうのは、ある種の本能とか反応とかだからいいと思うんですが、こうして生まれたちょっとネガティブな感情を上手に扱えなくて、ちょっと苦しくなったり人を攻撃してしまったりして、楽しいはずの推し活が楽しめなくなってしまう方もちらほら見かけるようになりました。

 

自分を承認してほしい、心の穴を埋めてほしい、そんな心が強まってしまった時、それを推しに求めて、でも思うように返ってこなくて、苦しくなって…。

そんな時は誰にでもあるんじゃないかなって思うんです。ただでさえ、たくさんの人の感情が渦巻く世界です。だからこそ、生まれたネガティブな感情を自分にどう使うかっていうことは常に意識していないといけないなって思いました。

 

ほんと、推し活とは修行だなと。

 

英会話には中学英文法を丁寧に復習するのがいいのかも

今日は英会話教室の2日目でした。相変わらず日本語で言いたいことがまず浮かばないという事象に悩まされたものの、今回はいい気分で終えることができました。

それはなぜか?を自分に問うた時、「中学英文法を復習した」から「少し自信がついた」気がしたので、今日はそのお話を書きます。

 

先週、英会話教室1回目を受講したあとの反省。

  • 課題1:文法に自信がないから、安心して話せない

  • 課題2:そもそも日本語で言いたいことが浮かばない

 

この2つを解決しないことには、いつまでたっても話せない気がする!と思った私は、早速この課題に取り組むことにしました。

今日は、まず課題1についてお話ししたいと思います。(課題2はまた別の機会に)

 

文法に自信がない、とは?

「文法に自信がない」と言いますが、学校で少し勉強してきたわけで、知識がゼロというわけではないんです。英語のテストは赤点続きだった私ですら、何となく知識は残っているわけです。つまり、「知識はあるけど、整理されていないから、使いたい時に上手に引き出してこれない」状態なんだな、と思いました。

そこで、頭の中の知識を整理整頓して、知識を“使える“状態にしようと思いました。

 

となると、英文法の復習をしたらいいのかも?

ということで、英文法の復習を始めることにしました。

すべての文法をざっとおさらいするには、大学受験で使うような文法テキストが一番網羅できるかなと思って、このテキストを使って勉強をしてみました。

 

英文法の問題がたくさん載っていて、別冊に文法の要点が解説されていて、持ち運びしやすいサイズ。まず別冊で知識を整理してから、豊富な問題に取り組み、解答を読みながら「なぜこれが正解になるのか」を丁寧に説明くれます。だから、説明された内容はとっても納得。

 

ただ、初心者の私にはまだ難しかった。。。

英単語を覚えることを避けて通ってきた私は、意味がわからない単語があるからそれを調べ、文章の構造を解析し、意味を取って…という段階を踏むので、雑音に惑わされてしまうんです。そして、時間がかかるが故、途中で飽きてしまうという。。。

 

そこで気づきます。そもそも初歩的な会話ができないのだから、もっと基本に立ち返ってもいいのだ。そして、そこをクリアしたらこの文法書に戻ればいいんだなと思い直しました。いきなり全部取り込もうとするから、惑うのです。

 

で、次に選んだのはこの本。

 

これが非常に相性がいいみたいで、復習が捗るんです。

  • 基本的な英単語を利用した英文ばかりなので、文法の復習に集中できる。
  • 文章の構成を考えるときに必要な知識が、すっきりと整理されている。
  • 30日で復習できる構成なので、サクサク読める。

これを4日分/日ペースで進めていますが、勉強していてとにかく気持ちいいです。8割くらいはわかってること、残りの2割を覚えればいい。この位の負荷が、楽しく勉強するにはちょうどいいんだな、と思いました。

 

それに、中学英文法って、本当に文法の基礎中の基礎なんです。語順の考え方、時制、疑問文、などなど。日本語の文章を考える時の「いつ」「どこで」「誰が」「誰と」「何をした」というのは、中学英文法がわかれば文章が作れてしまう。ここをおそろかにしていたから、文章が作れなかったんだなって、改めて思い知らされました。

 

そして、英会話教室へ。

効果測定の気分で参加してきました。今日の目標は「質問に対して、単語ではなく文章で回答すること」です。

今日も色々な質問やゲームを行なって、いくつか質問をされました。

初級クラスなので、まだ単語で返せるような質問が主ですから、結局「(聞かれたこと) is ××」が言えると文章で回答できるんですよね。やった、できるじゃん!

 

そうして私は小さなレベルアップを果たすことに成功しました。

次回は来月で、お休み中に何をしたかクラスのみんなに発表しましょうという課題があるので、何とか話せるように準備しようと思います。

 

やりたいことリストに潜む強敵の気配

昨日、「わくわくを持続させたい」という話をしましたが、わくわくというキーワードから「やりたいことリスト」というリストの存在を思い出しました。

 

わたしが「やりたいことリスト」の存在を知ったのは、新しい手帳を買った時に巻末付録についていた「やりたいこと100リスト」みたいなページでした。当時はやりたいことなんて考えないようにしていたくらいだったので、100個なんてとても埋まりませんでした。

 

その後、いろんな手帳術を知っていく中で、「やりたいことを考えてこなかった人こそ、無理矢理100個捻り出すことで、本当はやりたかったことがあったということを思い出す」という効果があるんだなということに気づきました。

コンビニの新商品のデザートを食べる、という小さなことから、年末には仕事で成功して収入アップという壮大な野望まで、色々書いてみて、できたことからチェックを入れて…。

四半期末とか年末とか、区切りのタイミングで見直して、どのくらいやりたいことをしてきたかをチェックすると、それなりに成果はあったのかなと思いながら、またリストを更新します。

 

で、気づくんです。やりたいことリストに書いてあるのに、実はやる気がないものが混ざっている、ということに。

 

やりたいことリストを書いているときは、全部やりたいことなんです。でも書き終えた瞬間、これの3割くらい達成できたらいいな、とか無意識に思ってるんです。

このリストのすべての項目にチェックがついている結果は想像しておらず、「いくつか叶って嬉しい。できなかったものは、また次のリストに転記すればいいや。」とか思ってるんです。

 

やりたいこと全部やればいいのに、自分はこのくらい叶えばいいやって無意識に妥協してしまうのは、何なんでしょうね。もちろん、実現に時間がかかるものはありますが、だったらなおのこと早く着手して実現に向かえばいいのに、とも言えるわけで。

 

これって、「本当にやりたいことではなかった」という側面と、「全部叶えるなんて畏れ多いと実は思ってる」という側面があると思うんです。

前者は、じゃあいいやで終わらせていいと思うのですが、後者は強敵。敵は自分の中にいます。自分のやりたいことを実現させないようにしている何かを自分の中に抱えているということです。

 

やりたいことのはずなのに、なぜ?

これについては、もう少し考えて見る必要がありそうです。

 

 

↓昨日の記事はこちらでした。よかったらご覧ください。

a8diary.hatenablog.com

 

わくわくを持続させたいから

雨が上がって、数日ぶりの朝散歩をしてきました。

雨上がりの土の匂いと、心地いいちょっとひんやりした風と、どこまでも続く広い空と。昨日までの縮こまった心が開放されるには十分な、気持ちの良い朝になりました。

調子に乗ったわたしは、久しぶりに近所の神社に足を伸ばし、お祈りしました。すると、雲の切れ目から陽の光が降り注いだのです。これは何かいいことありそうだな、と何だかわくわくしてきました。

で、ふと思いました。この「わくわく」感を持続できないものか、と。

 

わくわくしながら朝起きて、ごはん食べて、家を出て、…なんて生活が送れたら、毎日楽しいだろうなと思うんです。見える景色に色がついて、何が起きても楽しめて、寝る前に「今日も楽しかった」と満足して眠る。どうせ生きてるなら、そんな生活をしたい。一体どうしたら?

 

まず、「わくわく」とは何か?どんな時に使うのか?を考えると、、、

  • どんなことが起こるかわからないから「わくわくする」
  • 楽しそうだから「わくわくする」
  • やってみたいから「わくわくする」

「自分はできる、楽しめる」の自信を持って、知らない物事や未来に臨む状態、ということでしょうか。そしてここで重要なのが、「不安の感情がない」こと。

 

思い返せば、毎日暮らしていると不安なことがたくさん。個人的には、仕事減ってきて収入に不安が…とか。ここに書ききれないような不安が、知らない間に自分の心に刷り込まれてて、見える景色を曇らせているのかも、なんて思いました。

 

大人になると、わくわくだけで行動してはいられない時もあります。が、1秒でも長く「わくわく」を感じられるように、善処していくことはできるかもしれません。

1秒先のことなんてどうせわからないのです。まだ決まっていない未来を不安に奪われる前に、少しでもわくわく色に染められたらいいな。いや、染めてやるという気概で過ごせたら、と思います。

 

と、わくわくするにも覚悟が必要なんだな、と改めて思い知りながら。

 

風が強くて空気に押される

私が住む地域は、今日は朝から天気が荒れています。特に風が強くて、家がミシミシと悲鳴をあげています。天気予報によると、今日は一日荒れそうです。

 

風が強い日は、何だか体調が悪くなります。ちょっと息苦しかったり、頭が締め付けられるような感覚があったり、軽く眩暈がしたりします。空気に押されてる感じがする、という感覚が近いように思います。空気に押されているのは、いつものことのはずなんですけどね。不思議ですね。

 

そういえば、人間が宇宙服を着ないで宇宙空間に投げ出されると、身体が内側からの圧力で膨らんで破裂するという話を昔どこかで見たことがあります。宇宙に行ったことがないので真偽の程はわかりませんが、こういう空気の圧力を感じる日になると、なるほどなと妙に納得したりもします。

 

今ちょっと調べてみたら、地球の空気の層は100kmくらいの厚さらしいです。(※500kmくらいまでかなぁ...というニュアンスのサイトもあった。)その分の空気の重さを背負っているのかなと思っていましたが、上からドスンと乗っかっているというよりは、上からも横からも下からも空気の圧力に押されていて、固体である身体はその圧力に釣り合う圧力で押し返しているから形を保っているみたいです。常に押し合いしているわけですね。

 

ということは、天気が荒れて風が強い日は、空気の圧力に負けないように、身体はいつもよりも頑張って押し返しているという説もアリなのかもしれませんね。頑張ってくれている身体を労わってあげようかな、と思いました。

 

それにしても、だるいですねぇ。風強い日に通勤するの、面倒ですねぇ。(多分これが本音)