わたしの考えてること

日々の生活を通して気づいたことを書いています

推し活とは修行である

3年前くらいに人生初の「推し」ができまして、ゆるく推し活を楽しんでいます。

多忙を極めて自分を見失っていた私に「感情」を思い出させてくれたのは、推しでした。推しの作品や言葉に触れているうちに、「心が動く」感覚を思い出せたのです。

だから、頑張って活動を続けてくれることに感謝したいし、推しが好きなことをのびのびと楽しんで活動できるように、の気持ちで推し活をするようになりました。

 

ただ、最近思うのは、推しとの付き合い方って修行みたいだなってことです。

 

ふた昔前くらいは、人前に出る人は手が届かないのが当然で、思いは一方通行だし、個人を認知してもらうなんてことはまずなかったと思います。

ところが、今は、ネットを通じて誰でも簡単に活動者になれるようになりました。多数に埋もれないよう、彼らは手を尽くして常に新しいコンテンツを提供し、ファンと何度も交流を重ね、少しでも自分を「特別」にしてもらえるように努力を重ねていきます。

 

ファンの視点に立つと、この人いいなとちょっと検索をかけると、たくさんのコンテンツがヒットし、さらに日々新しいコンテンツを与えてくれ、配信ではたくさん耳障りのいい言葉を囁いてくれるし、対面イベントなんてものがあったら直接話したり握手したり写真撮ったりできちゃうわけです。毎日の生活に浸透し、話しかけると返事が返ってくることもある推し。そのうち「その他大勢のファンではなく、個人として認知されたい」とか「自分のことを特別扱いしてほしい」なんて気持ちが生まれるのも、わかります。

 

が、ここから先のところで自分が試されます。

 

例えば、自分よりも推しと仲良さそうに話している人がいて、それをどう見るか。「いいな、羨ましいな」と思った時、向かう方向がいくつかあると思うんです。

1つ目は、「楽しそうだなぁ」と“自分は自分““他人は他人“で割り切る方向。

2つ目は、自分も仲良くなりたいから「もっとアピール頑張ろう」という自分を高める方向。

3つ目は、自分には上手にできないから「自分より目立つ人を叩く」という相手を下げる方向。

ここで、どれを選択できるかは、その人の心の余裕だったりなのかなって。

 

「羨ましい」と思ってしまうのは、ある種の本能とか反応とかだからいいと思うんですが、こうして生まれたちょっとネガティブな感情を上手に扱えなくて、ちょっと苦しくなったり人を攻撃してしまったりして、楽しいはずの推し活が楽しめなくなってしまう方もちらほら見かけるようになりました。

 

自分を承認してほしい、心の穴を埋めてほしい、そんな心が強まってしまった時、それを推しに求めて、でも思うように返ってこなくて、苦しくなって…。

そんな時は誰にでもあるんじゃないかなって思うんです。ただでさえ、たくさんの人の感情が渦巻く世界です。だからこそ、生まれたネガティブな感情を自分にどう使うかっていうことは常に意識していないといけないなって思いました。

 

ほんと、推し活とは修行だなと。